突飛な題名に驚かれた人もいるかも知れませんが、かつて大学院に入ることを、入学ではなく冗談半分に「入院」と言う人が(私の周辺だけかも知れませんが)少なからずいました。それには、当時の大学院のイメージが影響しています。
法学系の大学院は、伝統的に研究者志望の学生のため「だけ」のルートでした。そのため、大学院生(以下、院生)は世間から隔絶した世界に身を置いて研究に専念するという、ある種悲壮な覚悟を持っていました。だからこそ病院に擬えた「入院」という言葉を使い、世間の人と異なる道を選ぶ自分自身への諦観を表現していました。今でも研究者志望の道としての大学院進学にはこのイメージは、ある程度当て嵌まる所があります。
しかし今日では大分事情が違います。その理由の一つは、学部教育の「大衆化」です。進学率の向上や財政基盤の縮小など、大学の環境は変化し、大学自体も変質を余儀なくされました。かつては専門教育機関であった大学の学部は、専門性よりも基礎的な能力を身につけさせることを要請されています(そのこと自体は、より広範な人々が高度な教育を受ける機会を得られようになったという意味で、良いことでもあります)。ただその結果、以前なら学部学生(以下、学生)が有していた知識・知恵への渇望に、学部教育が十分に応えられていないかもしれません。また社会の側も、複雑化する世の中の諸問題への解決を法に求めつつも、適切な答えを導く人材や知識の不足に悩んでいます。
価値観の異なる人々との共存が避けられない現代社会において、人々のコンセンサスによらずに秩序を形成し得る法の役割は重要です。その一方、不適切な使われ方をした場合の影響の大きさは計り知れません(近年、この事に理解がない人が、責任ある地位においても増え、濫用と思われる事例が多発しています)。法に関する知識や知恵の重要性は、今後増加することはあっても減ることは考えにくいです。だとすれば、大学院で法を学ぶこと・すぐに役に立つ知識としてだけでなくその背景にある知恵を学ぶこと(時には新たな知恵を生み出すこと)は、研究者を目指す人以外でも必要となります。そのためには、社会など外部の声から一定程度離れて、自由に思考し調査・研究を行うことが大切です。その意味では「入院」は今においても、あるいは今だからこそ、必要だとも言えます。
大学院卒業後の進路は、従来のように狭められてはいません。だからこそ、法に関し少しでも関心・疑問・問題意識を持つ人は、それを深めるべく「入院」を人生の一時期に置いてみることを検討してみてください。大学院の側でも、多様な背景を持った人が、共通の関心を持って集い、互いに切磋琢磨して知見を精錬していくことを歓迎します。