法科大学院教授 照沼 亮介
刑法は、法律の中でも刑事法というグループに属しています。刑事法は「犯罪と刑罰に関するルール」の総体であり、国家による処罰を適正な範囲にコントロールする役割を担っているものですが、その中で刑法は「どのような行為が犯罪となり、どのような刑罰が科されるか」を定めています。厳密には、「刑法」という名称で制定された法典(いわゆる刑法典)のほか、その他の法律で刑事罰が規定されているもの(いわゆる特別刑法)も含まれます。
なお、刑事法の全体像を知るための入門書としては、井田良『基礎から学ぶ刑事法[第6版]』(有斐閣、2017年)が定評のある書籍です。
いきなり「犯罪と刑罰に関するルール」などと言われると少々身構えてしまうかもしれません。少なくとも皆さんが普通に生活している上で世話になることは考えにくいですが(お世話になる心配があるという方は別途いろいろとご相談が必要になりそうです)、なぜこのような学問を学ぶ必要があるのでしょうか。
将来皆さんが法律に関連する職種を志望するか否かにかかわらず、解決の困難な問題について、広く先例や文献のリサーチを行い、さまざまな観点から検討を加え、自分の考えをきちんとした文章でまとめ、意見を異にする相手に対しても説得力を有するような主張を展開し、生産的な意見交換をする、といった能力は、「法学部出身の社会人」に対して広く一般に求められている素養であるといってよいと思われます(実際、企業の人事採用担当者の方々とお話ししても、在学中はなんでもよいのできちんと勉強し、考え、意見交換する訓練を積んでおいて欲しいと言われます)。そして刑法学は、広範な社会問題と密接に関わっており、解決に際して広い視野や論理的な思考力が要求されるため、こうした素養を身につける上で格好の素材であると考えられるのです。
刑法学では「犯罪」という一種の非日常的な事態において解決策を提示することが求められています。しかし、例えば裁判官と検察官、弁護士、被告人、関係者、さらに社会全体まで視野を広げると、各々にそれぞれの考えや立場があるわけで、全員が満足できる「絶対的な正解」などというのは、法律学においてはそもそもあり得ません。そうはいっても、少しでも「よりよい解決策」を目指して、意見交換し、理由付けを工夫する、そこに難しさと面白さがあるわけです。
刑法学の場合、被告人の人生、被害者の人生、それだけでなくその周辺にいる人々の人生までも直接的に左右する問題を扱います。と同時に、そこで出した結論が他の同種の事件の解決にも影響したり、社会政策全体や国際的な問題にまで波及効果をもたらすことがあります。そんな大事を解決しようとするときに、単に「自分の常識ではこうなる」などと言ってみても、説得力を持たず、生産的な解決にはつながりません。
例えば、テロリストが乗客・乗務員計200人を載せた航空機をハイジャックし、操縦室を占拠して、自爆テロの目的で目標に突っ込もうとしているとしましょう。そこでちょうど目標とされたビルの中には2,000人がおり、かつ、もはや避難する時間的余裕がなく、航空機を撃墜する以外にこれらの人々が助かる手段はないとします。この場合に、出動した戦闘機が航空機を撃墜し、機内の人間が全員死亡したが、ビルの中の人間は全員無事であった、というとき、この戦闘機のパイロットの行為は形式的には「殺人罪」にあたり得るわけですが、例外的に「適法」行為として扱われる、という結論を出すことは可能でしょうか。このような場合に問題となる条文は刑法の中にあるわけですが、その解釈をどうすべきか、議論の余地があります。
テロ対策の必要性が強く叫ばれる現在、適法としても構わないのではないかという見方もあるでしょう。他方、仮に自分やその家族が航空機内にいたとすると、何の落ち度もないのにただそこに居合わせたというだけで「適法に殺される」ことになりますが、その結論には抵抗を覚える人も多いでしょう。ここではいずれにしても、上で述べたように、単に「自分の正義」を振りかざしているだけでは話が進まないことがお分かり頂けるかと思います。
個人的に学生の皆さんに薦めているのは、学んだ内容を分かり易く身近な人(友人や家族など)に説明して、意見交換できるか試してみる、ということです。法律家が接する当事者・関係者は専門知識を有していないのが普通ですので、そうした人に対しても分かり易い言葉遣いで正確な説明ができるかにより、本当に自分の理解が定着しているかが分かるといってよいでしょう。
こうした経験を重ねて行く中でもし「教科書ではこう書かれているけど、もっといい解決策があるんじゃないか」などと考えるようになったとすれば、その時は皆さんは刑法学の面白さにきっと目覚めているはずです。
共犯論の理論研究として評価の高い照沼先生の代表作。
緻密な議論の展開と筆致に刑法学の醍醐味が詰まっている。