法学部憲法教員一同
憲法とは、国家権力を構成し、これを制約する枠組みのことです。一般に、前者の「構成」に当たる部分を「統治機構」、後者の「制約」に当たる部分を「人権」と言います。
では、なぜ国家権力を構成する必要があるのでしょうか?それは一言で言えば、社会の「平和」を確保するためです。もし国家が存在しなければ、平和な社会を実現することは困難です。というのも、善悪に関する判断は人によって様々ですから、各自が自己の最善の利益を目指して行動しようとすると、激しく衝突するからです。それでは人間らしい生き方はできないので、国家という共通の約束事を設けて、社会の平和を確保しようとしたのです。
では、なぜ国家権力を「構成」しておきながら、これを同時に「制約」する必要があるのでしょうか?それは、権力には自らを「目的」とする傾向があるからです。本来、権力は平和を実現する「手段」にすぎないのですが、社会全体の平和を実現しようとするその性質上どうしても強大にならざるをえません。しかしそのために、権力はいつしか目的である私たちを呑み込んで、権力による支配を目的とするようになります。ジョージ・オーウェルが『一九八四年』(早川書房、2009年)で描いた世界は、まさにそういう世界でした。
そこで、国家権力が暴走しないための工夫が必要になります。その一つが、権力を「分立」することです。権力を一手に集中せずに分散させることで、権力相互に抑制と均衡を働かせて、権力の肥大と暴走に歯止めをかけるのです。しかし、権力分立だけでは、権力の自己目的化を防ぐことはできません。抑制と均衡が働いたとしても、丸腰の個人の前に立ちはだかる国家権力は依然として重大な脅威だからです。そこで編み出されたもう一つの工夫が「人権」です。人権は、個人が自分の生き方を自分で決めることができるように、国家権力を覆す「切り札」として機能します。憲法の意味についてより詳しく知りたい皆さんには、長谷部恭男『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)をお勧めします。
では、憲法を学ぶ意味はどこにあるのでしょうか?憲法なんか知らなくても、一見困ることはなさそうです。でも、ひとたび国家が自分の生き方に干渉してくるとき、私たちの最後の頼みの綱になるのが実は憲法なのです。
例えば、皆さんは、誰と結婚するかについては、個人の全く自由な決定に任されていると思われるかもしれません。ところが、皆さんが同性の相手を選んだとしたら、目下のところ婚姻届の受理は期待できません。これは、国家が誰と結婚するかについて、制約を設けていることを意味します。この制約について、誰と結婚するかは自由なはずであるから、同性婚は憲法上の権利だと考える人もいるでしょうし、逆に、結婚が異性間に限られてきた伝統を重視して、同性婚を認めるべきではないという人もいることでしょう。
憲法は、このような人間の生きる意味に関わる事柄について、「社会全体の利益」の実現と「個人の尊重」の要請のバランスを、いかに図るかについて考えるよう我々に求めてきます。大切なのは、この場合にどうすべきかについて、それを判断するための客観的な物差しは存在しないという点です。この点が自然科学とは異なる点です。自然科学であれば、仮説をデータに基づいて検証することで、客観的な真理に近づいていくことは可能かもしれません。しかし、同性婚を認めるのが善いことなのか否かについて、科学的な答えを見出すことは不可能です。しかしそれでも、私たちは答えを導くことから逃げるわけにはいきません。私たちは一つの世界を共有している以上、互いに議論することを通じて「正解」を導き出す必要があるからです。この客観的な正解が存在しないという困難な状況の中で、にもかかわらず合意にたどり着こうとする営みにこそ、憲法を学ぶ意味はあります。
以上の憲法の特質からすると、憲法に決まった「学び方」があるわけではありません。というのも、学び方というのはHow toの世界ですが、憲法はWhyの世界だからです。なぜそうすることが正しいのかについての答えは、方法論からはでてきません。もちろん、憲法にも一定の作法はあります。民法や刑法と同様に、条文、判例や学説の勉強を通じて、その作法を身に着けていかないことには正解にたどり着けないのも事実です。
しかし残念ながら、その作法を身に着けるだけでは、いまだスタートラインに立ったにすぎません。そもそも、憲法は条文にして103条しかないですし、判例の数もそれほど多くはありません。条文や判例から正解がおのずと導かれることは、非常に稀といえます。しかも、問題となる事柄は、往々にして論争誘発的であり、法律の話をしているはずなのに、道徳の世界に誘われることもしばしばです。そんなときに頼りにできるのが、皆さんの「良識」です。良識をもって互いの差異を個性と認めて、議論や対話を通じて共存の道を探ることこそが、平和な世界を切り拓く唯一の方途なのです。
実は、大学の存在意義は、この議論や対話を提供する点にあります。皆さんが、大学生活を通じて、私たち教員や多くの仲間と共に、実りある議論を積み重ねられることを願います。
法学部の憲法は私たちが担当します。