上智大学法学部 Sophia University Faculty of Law

覆された裁判員裁判による死刑判決 ―熊谷6人殺害事件―
①刑法の見地から(責任能力の判断)

法科大学院
教授 照沼亮介

覆った死刑判決

 外国人である被告人が民家に侵入し、金品を奪い取る目的で、刃物を用いて合計6名を殺害したある重大事件につき、裁判員裁判による1審判決は、被告人が犯行当時において統合失調症に罹患しており、その影響による妄想が存在していたことも認めつつ、なお被告人には完全な責任能力が存在していたとして死刑を言い渡しました(さいたま地裁平成30年3月9日判決)。これに対して昨年12月5日、東京高等裁判所において控訴審判決が下され、現時点で判決文は未だ公刊物等に掲載されていませんが、報道によると、限定責任能力の状態にあったことを認めて刑法39条2項を適用し、被告人を無期懲役に処したようです。

 本件は既に盛んに報じられているようですが、生産的な議論を行うためには、まずは問題となっている法制度の内容、及びその解釈・適用に関する先例(関連する事案において裁判所が過去に示した判断のことを「判例」といいます)について正しく認識し、理解しておくことが必要です。以下では本件で争点となった責任能力を中心に、刑法学の見地からどのような点が問題となり得るかについて説明したいと思います。

問われる被告人の責任能力

 いかなる行為が犯罪となるかについての刑法学の一般的な理解によれば、まず第1に、刑罰法規において予定された、犯罪のカタログに当てはまる行為(「構成要件」に該当する行為といわれます)のみが処罰の対象とされます。その上で第2に、他のより軽い手段(民法上の損害賠償など)による対処では足りず、処罰に値する程度に実質的に「悪い」と評価される必要があります(これを違法性といいます)。そして第3に、以上のような意味で違法とされる行為をしてしまったとしても、その点につき被告人を責任非難できるかどうかが問われます(これを有責性といいます)。このように「違法であること」と「責任があること」を区別して判断する点については一見すると回りくどいように思えますが、より丁寧な判断を可能とすることのほか、さまざまな点で実益があります(興味があれば、ぜひ教室で一緒に考えてみましょう)。

 このうち本件のような事案において問題となるのは第3の段階ですが、一般的には、行為者が「自由に意思決定できた」ことを前提とした上で、違法な行為に出ることを思いとどまるべきであったのにその行為に出てしまった場合に行為者に対する責任非難が可能になるとされます。この判断に際してその有無が最も問題となることの多いのが責任能力という要件です。刑法39条1項は「心神喪失者の行為は、罰しない」としており、同条2項は「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」と規定していますが、その意義については解釈に委ねられているところ、わが国の判例では、心神喪失とは精神の障害により①「事物の理非善悪を弁識する能力」又は②「その弁識に従って行動する能力」のない状態をいうとされ、心神耗弱とはこれらの能力が通常人に比して著しく減退した状態を指すとされています。このうち①は自分の行為が違法であることを認識できる能力を指し、弁識能力と呼ばれます。これに対して②はこうした意識に従って行動をコントロールする能力を指し、制御能力と呼ばれます。一般的には、①②を併せて責任能力と称し、両者が備わって初めて責任非難が可能となると考えられてきました。

 実際上問題となるのはその判断方法ですが、上述した判例の定義においては、「精神の障害」という精神医学的に確認できる状態を前提として、「知・情・意」などといわれるような側面から弁識・制御能力の有無を判断することが前提とされており、これを指して「生物学的要素」と「心理学的要素」の双方を考慮するものである(混合的方法)などという説明もなされています(生物学の領分と心理学の領分をきれいに切り分けることが可能なのかは疑問もありますが…)。そして、近年に至るまでの最高裁判例では、①責任能力の判断はもっぱら裁判所に委ねられた法律判断であり、犯行当時の病状、犯行前の生活状態、犯行の動機・態様等を総合して行われる、②ただし、専門家でない裁判官が精神医学的な事実について判断する際には、基本的には専門家の鑑定に依拠する必要があり、鑑定と異なった判断をすることができるのは、例えばその鑑定の基礎となった事実に誤りがあったり鑑定人の公正さや能力に疑いが生じた場合などの合理的な理由が認められる場合に限られる、③裁判所は特定の鑑定意見の一部を証拠として採用した場合においても、責任能力の有無・程度については、その意見の他の部分に拘束されることなく判断することができる、といった指針が示されています。

 ただ、例えば精神医学の判断と「弁識・制御能力」の有無という法的判断とはどのような関係に立つのか、具体的にいかなる状態に至れば「限定責任能力」と評価されるのか、どのように裁判員に説明して判断して貰えばよいのかなど、実際上の運用に際しては問題点が山積しているのが現状です。特に最近では、例えば認知症、アスペルガー症候群、クレプトマニア(窃盗癖)及びこれに伴う摂食障害などの診断が下された際に、これらの症状の責任能力への影響の有無・程度をどのように判断すべきかという難問がしばしば生じており、「処罰」と「治療」の限界が問われることになります。その一方で、特に本件のような重大事案では責任能力についての判断によって結論が大きく左右されることから、保安上の要請として、あるいは処罰感情の充足のために、しばしば非難可能性の有無・程度とは無関係な形で重い処罰を求める主張が生じることになるのです。

難しい「究極の刑罰」の判断

 本件で問題となった強盗殺人罪の法定刑としては死刑と無期懲役刑しか定められていないのですが(刑法240条後段)、本件では殺意の存在が認められ、被害者の数が多数にわたっています。その他にも数多くの犯罪事実が認定されており、これらを前提として量刑判断を行うのであれば、責任能力の点を除けば死刑という結論しかないと考えられます。もっともまさに本件では責任能力の「程度」に関する評価によって1審と控訴審とで結論が分かれました。確認しておくべきであるのは、本件はいずれの結論も論理的に成り立ちうる、難しい判断が迫られたケースであったという点です。1審判決が重視したのは、被告人の妄想が現実の出来事に基盤を置いていること、個々の犯罪の決意・実行場面では正常な精神機能に基づく判断がなされたと評価できることなどの点でしたが、逆に統合失調症の顕著な影響下にあり責任能力が著しく減弱していたという評価も可能と思われます。結論に対する賛否を別にして、1審判決の裁判官・裁判員が真剣に評議を尽くして結論を導いたのと同様に、控訴審の裁判官も真剣な検討を尽くしたであろうことには疑いの余地はないでしょう。

 なお、控訴審判決が裁判員裁判による1審の死刑判決を覆すことについては別途検討の余地があります。詳細は岩田教授による解説をご参照頂くこととして、ここでは、この種の事案は必ずしも多いわけではないこと、最近の最高裁判例においては、死刑が他の刑罰とは質的に異なる「究極の刑罰」である以上、公平性の見地からも過去の裁判例における考慮要素やその比重などについて十分に検討される必要があり、死刑選択がやむを得ないと判断される場合にはその「具体的、説得的な根拠」を示す必要があるとされていること、こうした最高裁の慎重・厳格な姿勢は、国内において重大犯罪の発生が減少傾向にあり、国際的にも死刑廃止の趨勢が顕著である中、死刑適用を容易にする方向の議論は適切でないという判断に基づいているとする分析があることを付言するにとどめておきます。

法的に考える、とは

 このように、一つの事例における責任能力の判断をみただけでも明らかな通り、他の社会科学と同様、法律学の問題には「絶対的な正解」というものは存在しません。だからこそ、少しでもよりよい社会の実現に向けて、多角的な見地から、自分とは立場を異にする人に対しても説得力を持ち得るような主張を展開し、生産的な議論を行う必要があるのであって、単に声高に自分の意見を主張していればよいというわけではありません。そこにこそ法的に考え論じることの難しさがあると同時にやりがいがあるのではないかと思います。